臆病で怠惰な男が覚醒してフリーランスのコーダーになった話
noteで「#この仕事を選んだわけ」というタグが流行っているらしく、いろんな人のいろんな本音を知れたので、そういえば僕もちゃんと文章にして語ったことはないなと思い、今回流行りに乗ることにしました。
といっても僕の場合は、感動的なエピソードや熱い想いなどはありません。「怠惰」です。
ただ、働きたくなかった。それだけの理由で始め、それだけの理由で続いています。
今やってる仕事について
物語を始める前に、今やってる仕事について紹介します。
僕は今、メインはフリーランスのコーダーとして、複数の制作会社から業務の依頼を請け働いています。フリーランス歴は今で5年半くらいですかね…。仕事内容は、ウェブサイト制作のウェブデザインから後の工程を行っています。コーディングはもちろん、WordPressなど簡単なプログラミングを組んだり、レンタルサーバーやドメインを管理したり、技術的なことやSEOの相談に乗ったりもします。
それでは、物語を始めましょう。
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怒られたくない
幼少期から少年期にかけて、だいたい性格が決まるころのお話。僕は親がとにかく恐かったんです。怒鳴ったり殴ったりは当たり前で、ときには顔中が内出血で真っ青になるほど叩きまわされたこともありました。頭から血が噴き出たこともあるし、「根性焼き」の跡は今でも残っています。
暴力的であること以外は、人に負けないような生き方や社会で大事なことを教えてくれたり、良い学校に通わせてくれたりと、総合的に見ると感謝する部分が多いのですが、それでも僕は怒られることに対して恐怖を感じるようになり、徐々に怒られないように振る舞う人間になりました。
怒られたくないから言うことをちゃんと聞き、怒られたくないから涙を流さず、怒られたくないから少年剣道も稽古をがんばって強くなり、怒られたくないから勉強して地元の国立大学に入りました。怒られることを回避して生きた結果、スポーツも勉強も大抵は無難にこなし、わがままも文句も言わない「真面目で優秀な子」になっていました。
「働きたくない」と違う話になってしまいましたが、「怒られたくない」はおそらく今も、僕の中の最も深くにある人格だと思います。
そして、つい最近まで自覚していなかったのですが、残念ながらけっこう歪んでいるようです。今まで関わってきた様々な人の態度や、言われてきた言葉。あれは今思うと。。。まぁ、それはもういい大人だし、個性として受け入れました。対人は相変わらず苦手ですが、仲良くしてくれる人もいるし、生きる上で問題ではなくなりました。
怒る人がいなくなった
爆弾を抱えたような少年時代を終え、大学に入ってからは、自分を怒る人がいなくなりました。親も離婚してしまい、教育の義務から解放されたので、自分の人生に忙しそうでほとんど干渉されなくなりました。高校までは先生に怒られてましたが、大学の教授もほぼ怒ったりしません。バイトも、怒るような人がいるところはすぐ辞めてしまってました。
今まで怒られないことが行動の起点であった僕にとって、誰にも怒られない世界は、果てしなく自由であり、同時に自力では何もできない、地獄でした。
そう、大学生になったとたん、爆弾から解放された僕は何もできなくなった、何もしなくなったのです。
「怠惰」「無能」「何もできないゴミ」
その頃の僕を見れば、きっと誰もがそう感じるでしょう。実際やんわり言われたこともあります。
家の中はゴミまみれ、米が残った炊飯器は腐海から一周回ってカビも死滅するほど放置され、冷蔵庫からは謎の汁がしたたり、人が踏み込む場所ではありませんでした。学校へはほとんど行かず2年留年し3年目も超ギリギリで卒業、将来の目標もなく、良い仕事をしたいという熱意もなく、就職氷河期・圧迫面接によるストレスで就活もリタイア。そんな感じで6年間ゾンビのように大学に通ったあげく、卒業後の僕は空っぽのプー太郎でした。
働きたくない
さてようやく社会人の僕の話になりました。
いくら怠惰とはいえ、すでに親元からは離れていたため、何か仕事をしなければ生きていけません。卒業後、しばらくして僕は店舗棚卸業者のアルバイトを始めました。
コンビニの棚卸が主な業務でしたが、朝8時半までに現地に行き、夕方5時に終わって事務所に帰ってくるという時間割で、それを県内全域のコンビニでやるので、遠方に行くときなんかは6時半に事務所に集合して1時間以上運転、帰りも8時過ぎになることもあり、ひどいときはそのまま夜勤の人員補填で次の日の朝まで働いてたりすることもありました。
仕事中に気を失ったり、平衡感覚を失ったり居眠り運転で事故りかけたこともあり、そんな過酷な労働環境のなか、手取りはたったの10~15万ほどでした。
転職活動はなんとなくやってました。大学が情報系だったので、基本情報技術者を取得してIT会社に面接に行ったりもしましたが、熱意もコミュ力もなくふんわりとした志望動機しかなく、なかなか受かりませんでした。
2年ほど続けたころ、ここで、ようやく僕の今の人格が芽生えました。
「つらい…死ぬ…何もかもしんどい…なんで?こうなった?勉強して良い大学を出て、優秀なはずの俺がこんなとこで何してる?気絶しながら働いてるのになんでこんなに生活が苦しい?
もう、働きたくない・・・
働きたくない
働きたくない!!
」
こうして自業自得で発狂した僕は、ネットサーフィンをして目に入った情報、そう、みんながネタにする、あの「フリーランスとして自宅で稼ぐ方法」に飛びついてしまったのです。。。
これが、今まで何も選択しなかった僕がフリーランスという生き方を認識した瞬間であり、僕の今のメイン人格「働きたくない」が芽生えた瞬間であります。
最初は、デザイナーになる予定だった
こうしてフリーランスになる決意をしたわけですが、最初はコーダーではなくデザイナーになる予定でした。
なぜなら、ウェブデザインができれば、ランサーズのコンペとかでお手軽に稼げると当時言われていたのを鵜呑みにしていたからです。
ところが、みなさんお察しの通り、現実はそんなに甘くありませんでした。そんな状態で仕事ができるわけなく、少ない手取りでなんとか残っていた貯金は速攻で尽き、リボ払いの消費者金融に手を出しました。
僕がこんな状態だったので、同じく「稼げる情報」にしがみつき踊らされてしまう人たちを馬鹿にしたりはしません、むしろ応援したいです。
大体の人はここで諦めてしまうと思うんですが、もう働きたくない人格になってしまった僕は、どうしても諦めきれず、地元の制作会社にアルバイトとして入り修行を積むことにしました。
今思うとこの選択は、自分が選択した中では人生で最も大事な分岐だったと思います。
さて、ウェブデザイナー志望で制作会社にアルバイトとして無事入社できたわけですが、その会社ではコーダーが足りておらず、というかもう人が全然足りておらず、僕は入ってすぐコーダー兼その他だいたいなんでもする人になりました。
それもまためぐり合わせでしょうか、はたまた面接のときに「独立したいのでなんでもやります」と言ったことを実現させてくれたのか、とにかく会社での業務はフリーランスになっても役に立つことばかりでした。
デザイナーじゃなくてコーダーとして独立できたのも、今となっては正解だと思ってます。たぶん僕はデザイナー向きではないです。
そこから、もともと怒られたくないがために生きて優秀だった僕は、めきめきと能力を伸ばし、入社2.5年程度にして見事、独立を果たしたのであった・・・。
おしまい
どうでしょうか、全然キラキラしてないですよね。むしろきたない。フリーランスがみんなキラキラしてると思ったら大きな間違いやで!
制作会社にいたころも含めて、それまでに比べ、今はほんとに半分も働いてないですね。一日平均5時間も働いてないし、年に合計3ヶ月くらいは仕事してない日があります。
しかし、僕の働きたくないはこんなもんじゃありません。
もっともっと労働を減らしたい。ほとんど働かなくてもお金がほしい。もちろんそれが簡単ではないことも今では十分承知していますが、それでも、それを叶えている人は確かに存在しているので、きっと僕にも不可能ではないという気持ちで、これからも追い求めていくのでしょう。
怠惰は最高のモチベーションである
それじゃ、バイバイ!